目黒大橋の歴史

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“大橋の由来”

江戸時代の氷川神社と前通り

目黒の大橋という地名の由来は、江戸時代までさかのぼります。

江戸時代にはまだ、大橋という地名はなく上目黒の内でした。

当時、この近辺は川幅が広く、大きくしっかりとした橋を架ける必要がありました。

新編武蔵風土記稿によると文化年間(19世紀初頭)ごろ“上目黒村の中村勘右衛門が幕府に願い出て許可を貰い、長さ7間×幅9尺の土橋を架け、傍らに水車がある”と記されています。

おおよそ13メートルの橋は当時としては巨大なもの。近隣の愛称として創架当初から“大橋”と呼ばれていました。

新町割案をめぐって住民の意向の調整が難航した昭和44年1月に住民投票が行われ、“青葉台四丁目・六丁目”、“南駒場”、をおさえ、晴れて“大橋”が正式な地名となりました。

現在、国道246号線が目黒川をまたぐ部分に掛かっている橋が、当時の大橋部分です。昭和2年に鋼桁橋に修復され、その後、東京オリンピック開催の昭和39年に高速道路の架設とともに改修したものとなっております。

“玉電”の大橋

玉川電車沿線名所図会

1907年(明治40年)~1969年(昭和44年)の間、沿線の人々の足となり、渋谷と二子玉川を結んだ玉川線(通称“玉電”)時代には、目黒区上目黒に「大橋」、世田谷区池尻に「玉電池尻」とそれぞれの停留所が存在しました。

大橋には玉電の車庫があった事でも知られており、第二次世界大戦末期には空襲に備え大橋車庫の車両の一部が疎開していました。

また、明治時代から大橋には軍事演習場があり、士官が多く住む街としても知られていました。大橋の商店街は軍御用達の仕立て屋や雑貨屋などが軒を連ねていました。

大橋車庫はのちに東急バス大橋営業所に転用され、現在その場所には、首都高速道路大橋ジャンクションが建設されております。

「池尻大橋駅」は1977年(昭和52年)に、新玉川線の駅として開業しました。2000年(平成12年)に同線が田園都市線に編入されたため、同線の駅となりました。 因みに、開業直前までは「大橋池尻」駅となる予定で、実際に自動券売機で発売される乗車券の試し刷りがプレス発表されたものには「大橋池尻」と印字されていたという事です。